「ブラック・ジャック」は、手塚治虫さんによる医療をテーマにした漫画で、無免許ながらも天才的な腕前を持つ外科医・ブラックジャックの活躍を描いています。
医療を扱う漫画というのもあまり数はありませんが、特に、手塚治虫さんが描く病気の設定や手術の場面は、私たちのような医療の素人にも「きっと本当なのだろう…」と思わせる精緻さがあります。
病気がテーマなので、時には「うぅ」と息を飲むような設定やシーンもありますが、その中でも、特に印象深いエピソードのひとつは、「ブラック・ジャック」に欠かせない登場人物ピノコの誕生を描いた作品…その名も「畸形嚢腫(きけいのうしゅ)」です…。
中学生だった私が、父の本棚にあった古いチャンピオンコミックの単行本を手に取って、このエピソードを初めて目にした時の衝撃は今でも忘れられません…。
今回は、改めてこの「ピノコ誕生」のエピソードにスポットを当て、その不思議や、魅力をご紹介したいと思います。
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ピノコの正体は?!
ピノコは、身元を明かせないほどの名家の18歳の娘の体にできた畸形(きけい:先天性の異常な形態。「奇形」と同じ)の「腫瘍(できもの)」として登場します。
医学の専門ではない私には詳しくはわからないのですが、この奇形の腫瘍は「ふたごで生まれるはずだったもうひとりの体の一部が、正常に育ったひとりの体内に(腫瘍として)包まれたまま生まれてくることがある」と説明されています。
そして、その腫瘍の中には一対の人体としては不完全な「目玉だったり、髪の毛だったり手や足」がバラバラに収まっていて、通常であれば腫瘍が成長する前に切除するもの…なのだそうです…。
…では、本当はすぐに切除すればよかったこの腫瘍は、なぜ18年間も切られないまま、大きなコブになってしまったのか…?
作品では、これまでもあちこちの病院で摘出手術を受けようとしたが、そのたびに「立ち会った者が狂いだして、そのためにいつも手術は中止」になるのだと、担当医師は話します…。
そして、立ち会った医師がおかしくなってしまう原因を、担当医師は「あの嚢腫の、のろい」だと言うのです。担当医師は、万策尽き、やむを得ず無免許ながら名医で知られるブラック・ジャックのところに、この患者を持ち込んだのでした。
ブラック・ジャックは「ばかな!はれものが人間をのろうのかね?フフフフ」と一笑に付し、いよいよ手術に取り掛かるのですが、嚢腫にメスを入れようとする彼を激しい頭痛が襲います。そして、その「痛みの原因」は、ブラック・ジャックに、こう言う(?!)のです。
「切るな!切るな!切るな!」
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ピノコ誕生秘話…に感じる違和感
このエピソードを、私は子どもの頃から数十年ぶりに読み返しましたが、いわゆるピノコの原型が、腫瘍の中に入ったバラバラの体であるという衝撃的な設定と描写の気味悪さ(すみません)は、記憶していました。忘れようにも忘れられない内容です。
しかし、なぜこの腫瘍が18年間も女性から切り取られなかったのか?、なぜ切り取ろうとすると「切れない」のか?という部分の描写は、正直、記憶にも残っていませんでしたが、改めてエピソードを読んでみると、この部分に違和感を感じる自分がいることに気づきました…。
私のようなド文系の人間からすると、医学や医療分野というのは、まさに客観的で合理的な科学の領域だと考えていました。当然、医療漫画であるブラック・ジャックに通底する考え方も、同じだと思います。
その証拠に、ブラック・ジャックは「のろい」で切れないのだ、と説明する担当医師の話を笑い飛ばしながら「…ぼつぼつはじめるか…のろいつきの手術をな」と、そんなことはあり得ないという態度を取っています。
そんなオカルトめいたことが起こる訳がない…これこそが、科学者たる医師の取るべき態度だと思います。でも、医師で医学博士である手塚治虫さんは、あえてオカルトのような展開を用意したのでした。
これは、子どもの頃には気づきませんでしたが、今読めば、意図的に準備された違和感…そう思わずにはいられないのです。
では改めて、この時、ブラック・ジャックの頭に直接話しかけてきたのは、誰なのかという問題が残ります。
ピノコは何歳?コブだった?
この声の主は誰なのか、与えられた選択肢から考えたら、この腫瘍の中身であるピノコだろうなぁ、と思います。
18歳の女性の体で、共に18年間成長し続けたもうひとつの命、のちにピノコと名付けられる彼女の声、それならすんなり理解できる気がします。作中での描かれ方を見てみましょう。
謎の激痛の頭痛や首絞めなど、自分の体のコントロールが効かない状態に耐えかねたブラック・ジャックは、その声の主に話しかける時に、こう言います。「だ、だれだ!!コブめっ、きさまかっ」と。
とっさに、ブラック・ジャックは、自分に話しかけたのが、コブ(腫瘍)だと考えたのです。メスを首に刺そうとするコブに「私はおまえを切り取るが殺しやしない。おまえは、ちゃんと人間の肉体をつつんだ生きものだ。私はお前を生かしておくつもりだ、安心するがいい!」と伝えます。
この時のブラック・ジャックの口調からは、生かしておく方法についての確かな目算があった訳ではないようです。コブに「ほんとに助けるの?どうやって?」と詰問された時に、「ど…どうやって…そうだな…培養液にひたすか…」とかろうじて答えるからです。
しかし、コブは「あなたを信用します」と言います。コブはブラック・ジャックの技術の高さを知っていた、と言うのです。そして、ブラック・ジャックは、コブを切り取ることに成功し、コブとコブの中身の命を奪うことなく培養液の中に入れることに成功します。
そこから先、娘からコブの切除に成功したブラック・ジャックは、担当医師から絶賛と感謝を受けます。しかし、死なせる理由はないからと腫瘍を生かしているブラック・ジャックに、担当医師は「そんなものはすぐ捨ててくださいっ。見るのもけがらわしいっ。のろいがかかりますぞっ」と血相を変えます。
ブラック・ジャックはそれを突っぱね、またひとり手術室に入ります。そして、コブとコブの中身であるバラバラの体組織、そして体細胞で足りないところを合成繊維で組み立てて、人間ピノコを仕立てたのです。
切除手術、ピノコを仕立てる手術、いずれの間も、謎の声は聞こえず、作品中では最後まで謎の声は登場しません。麻酔で眠らされていたからでしょうか?それとも、生きながらえることができたという目的を達したから、でしょうか?
ブラック・ジャックは、なぜピノコを人間にしたのか…
ブラック・ジャックは、この不可思議で非科学的な出来事について、作中で自分の想いを語ることはありません。
しかし、彼の頭の中には、とっさの苦し紛れに培養液の中にコブとコブの中身を移すことになってしまった(移すと決めた)時には、この体組織を使って新たな人間を仕立てるイメージの断片はあったのだろうと思います。
そんな彼も、人間を仕立てる手術に自信があった訳ではないことが、いくつかのコマから読み取ることができます。培養液のケースをじっと見つめるブラック・ジャック。そして、酒をグッとひとくちあおり、もう一度、培養液のケースを無言で見つめます。そして、心を決めたかのように立ち上がり、手術を始めるのです。
そうして、こう心の中でひとり語りするのです。
「おまえは、人間になりそこなった肉体のかけらだ。おれの手で組み立てて、人間に仕立ててやるぞ。おまえはさいわい、脳から心臓から手足まで全部そろっているんだ。…お前はりっぱに一人前の肉体に仕上がるはずなんだ!」
この時、彼の胸に去来する想いは、何でしょうか。
もしかすると、不発弾の爆発に巻き込まれ、バラバラになった子どもの頃の自分自身の不遇、そして、それを諦めずに治療し、今の自分に治してくれた本間医師。
この二人の姿を、コブの中身のバラバラな体の命、そして医師としての自分、目の前の患者のためにすべきことがある自分…に重ね合わせていたのではないかと、私は思います。
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もしかすると、不発弾の爆発に巻き込まれ、バラバラになった子どもの頃の自分自身の不遇、そして、それを諦めずに治療し、今の自分に治してくれた本間医師。
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「畸形嚢腫(奇形のう腫)」は実在する?どこまでが本当で、どこからがフィクションなのか?
正体のわからない声が聴こえるという、ブラック・ジャックでは異質とも言えるオカルト風のこの作品。
ブラック・ジャック自身が「ミイラののろいなんてのは、話なら聞いたがね。はれものが人間をのろうのかね?フフフフ」と言い、死んでいる者がのろうことがあっても、生きている者・モノがのろうことは無いだろうというブラック・ジャックの見解が暗に示されています。これが普通の科学者、医者の態度だと思います。
この作品は、全体的にコミカルなタッチで描かれており、しかも短い紙幅なので気づきにくいですが、手塚漫画の中でも非常に重要なテーマを扱っている特別な作品だと思います。それは「生命(意識)がどこから生じるのか」という科学の永遠のテーマです。
手塚治虫さんは、作品「火の鳥」でも、「命」の不思議さ、はかなさ、尊さを表現し続けました。そして、それは医療漫画である「ブラック・ジャック」では、なおそれを扱わずには、いられなかったでしょう。
「火の鳥」という超常現象的な存在をテーマにするなら表現しやすい生命の神秘(生命や意識の起源)も、しかし、医療という科学的であるべき作品の中で、生命や意識の起源というテーマを取扱おうとすれば、このようなテレパシーや超能力やのろいのような、オカルト風の描き方をせざるを得ない、表現の限界があったのではないかと感じます。
だからこそ、その声の主は、ピノコとも、腫瘍とも取れるものにしたのでしょう。
つまり、その声の主は、小さな視点ではこのバラバラな体細胞の中枢である脳髄が発する声、又は、その脳髄を守る母たる腫瘍の声、もっと大きな視点では、その生命を造った創造主の声(…創造主としては、かなり俗っぽい言葉遣いです…「ヤブ医者」とか発言します。笑)という解釈があって良いかもしれませんね。
このように、読めば読むほど深い、手塚治虫さんの漫画。多くの人が魅了されるのも、改めてよくわかりました。
ちなみに、最後にちょっとだけ調べてみたことをお伝えします。
この「畸形嚢腫(奇形のう腫)」というエピソード、現実の医学の世界では、どこまでが本当で、どこからがフィクションなのかな、と思ったことはありませんか…?
ネットでちょっと調べてみたところ、病理学のお医者さまのサイトにその答えが書いてありました。少し長いですが引用させていただきます…。
病理医になってからは、あまりによく見る病気で、悲しいかな、いちいち驚かずとも、淡々と「成熟奇形腫」と病理診断するようになりました。若い女性の卵巣腫瘍の多くは、この奇形腫で、卵巣の良性腫瘍全体の2割を占めるほどなのです。
引用元「Medit lab」サイト ~ピノコは実在する!?「奇形腫」~
実際、肉眼で見るとこの腫瘍はマンガに負けず劣らずかなりグロテスクで、袋のような組織の中に、毛髪がぱんぱんに詰まっていたり、時に、立派に完成した歯や骨がごろっと出てきたりしてぎょっとします。顕微鏡で観察すると、ひとつの腫瘍の中に、いろんな臓器の様々なパーツがいっしょくたになって作られています。
それぞれのパーツは、実際の臓器と同じくらい精密にできているのですよ!特に、毛の生えた皮膚や脳組織が含まれることが多く、脳組織を見るたびに「腫瘍も何か、ものを考えているのかな~?」とか妄想してしまうのでした。
私も先生の記事を見て、本当にぎょっとしてしまいました。お医者さまは、日々、生命の神秘に触れながら、お仕事されているのですね…。事実は小説よりも奇なり…頭が下がります。
ピノコの名前の由来はピノキオ?!
さて、その後「ピノコ」(アニメでは「ピノキオ」になぞらえて名付けられたように描かれています)と名付けられたこのバラバラの体細胞の集合は、ブラック・ジャックの大切なパートナーとなります。
ブラック・ジャックは、生まれたばかりのピノコ(見た目は幼児ですが、実際は生まれたてです)にも、自分のことは自分でできるようになるために決して甘い顔はしませんでした。ピノコは懸命に努力をして、動いたり話したりすることができるようになります。
詳しくは⇩こちらで紹介していますので、ぜひ読んでみてください。
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また、手塚漫画の重要テーマ「命」の不思議さ、はかなさ、尊さを表現したピノコ誕生のエピソードは、講談社出版の【ブラックジャック手塚治虫全集「1巻」】でも読むことができます。
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